痛みの文学 - あんとに庵◆備忘録
■[芸術]痛みの文学
わたくしは柳美里という書き手は好きではない。でもきちんと彼女の文学は読んだことがないので、作家としてどうなのかを評することは出来ない。ただエッセイを読んで、とても不快感に襲われた記憶がある。なにかの雑誌にずっと連載していたエッセイなのだが、とにかく読後の気分が良くない。延々と続く自分語り、自らの痛みを前面に出すような、まったく共感を感じない書き方に、嫌悪だけが残った。要するに肥大化した自己厨の羅列なのだ。
こういうのを「痛みの芸術」と私は呼んでいる。
柳美里だけではない、かつて美術の世界においてもこの手の手法が流行ったことがある。痛みを前面にして、剥き出しにして見せる方法。そういうものには一切共感を感じなかった。自己中ばかりが目立つ芸術には対話はない。一方的な主張のみが煩い。
しかし。。だからといってこれらの痛みの芸術が芸術として間違っているかというとそうではない。ただ私の感性が拒絶するだけで、しかし他者を嫌悪に導くという点において、やはり何かを伝えることには成功しているだろう。柳美里の小説にもおそらくそういう要素があると思う。エッセイにおいてあれだけ嫌悪を人に与えるパワーがあるということはそれなりの存在のある何かがそこにあるということは想像できる。だから私自身は好まないが、それなりの力を持った作家ではあるのだろうという認識であった。
さて、その柳美里がファンのBBSで彼女を批判している人を相手に喧嘩をしているらしい。
あなたは、退屈で死ぬことができます
詳しくは枇杷さんのブログ
あるいは↓ここをご覧下さい。
柳美里ファンBBS
たいへん、残念ではありますが、この書き込みを最後に、わたしは当分ここには訪れません。
当分というのは、半年かもしれないし、1年かもしれないし、2年かも知れないということです。
<お気に入り>からも削除します。2ちゃんねるがそのまま移動してきてしまったからです。
読まないし、書き込まないから、わたしを煽っても無駄ですよ。
ここは、あなたがたの<遊び場>ではありません。
あなたがたには2ちゃんのジャングルジムやブランコがお似合いですよ(笑)
ばいばい!
上記は本当に彼女の言葉らしい。ネットで言うところの厨房的と申しますか。本当に作家なのか?というほどの剥き出しの言葉です。いやはや、公認でもないファンサイトにやって来て、喧嘩した揚げ句去っていくというのはすごい。やり取りだけ読んでいると、彼女が噛みついた相手のほうに気の毒になるが、しかし、これこそが「痛みの芸術家」の面目躍如と言えると思いました。
大恐慌の教会
ここに到るまでに、かなりの言葉を費やして書き込みをしていて、そこに綴っているように自らの傷を正直にさらけ出すことが出来る柳美里女史はやはりそれなりの評価がされるに足る作家なのだと見直した。生の声を無視し安穏な場所で澄ましていられない。そして言葉を尽くして更に傷ついていく光景は、見ていて痛々しいが、彼女なりのそれが誠実さなのだとは思う。こういうのは世俗からするとかなり痛い非常識に映ってしまう。そこが彼女の悲劇でもあるが、そのズレが彼女の芸術の原動力なんだろう。このエネルギーを作品に凝縮したほうがいいんじゃないかと言いたくなるものの、面白い小説家の一人だと思いましたね。
さて、芸術家というのはえてして非常識です。どうも世俗と感覚にずれがある。これは芸術家だけでなく学者や、宗教家にも言えますが、どこか軸がずれている。中にはそれ以外の仕事だったら出来なかっただろうなぁという感想を抱かざるを得ない方々もいる。周りにもトンでもないのがかなりいるし、自分自身もやはりトンでもないんだろうなぁ。と思う時がよくある。でもそうした自分を肯定していかないと作品は作れない。敢て他者との価値とは別の次元で生きることを選択しないといけない場面が多い。
柳美里自身そのことは自覚している。
何故「日記」ではなく「小説」なのか、という質問に対しては、わたしが取り返しがつかない選択として「作家」
という仕事を選んだから、としか答えようがありません。そして、作家である柳美里を母親に持ってしまったの
は、息子の宿命で、宿命というもの越えるために在るものだと、わたしは思っています。
小児うつ病の雑誌記事
私の友人に、翻訳家がいるが文章が上手いので「作家になるといい」といったら「作家になると友人を失う」と、返事が帰ってきた。作家は周りにいる人間を全て素材と見做す。家族だろうが、なんだろうがお構いなしだ。特に日本の文学のごとき私小説的傾向の強い作品ほどそれが強くなる。だから小説家はどこかでタガがはずれた非常識な感性でないとつとまらない。
柳美里もそういう非常識な芸術家の一人であり、そういう人がネットなどに来てしまうと当然ズレが増幅されてしまう。ネット上や文面だけのやり取りというのは面と向かうよりも人間関係を壊すリスクが大きい場所で、そこに彼女のような痛みの芸術家が来てしまったら当然トラブルは目に見えている。しかしその構図に気付かない時点で彼女が彼女たるゆえんかもしれない。
なんとなく彼女の作品を読んでみたくなりましたが、やはり私は読まないだろうと思います。たぶん受け入れることが出来ないことが予測されるから。しかし彼女が芸術家として生き続けている様は評価したいですね。潰れずにあがらいながら作品を書き続けて欲しいと思うのです。
◆「石に泳ぐ魚」裁判
madrigallさんがコメントで指摘なさったこの事件についていえば、芸術家の非常識から、社会は人を守らねばならない。ということなんだとは思いますね。
当時この事件について聞いた時、「なんて馬鹿な作家だ」と単純に思いました。そもそも作家なら人物が特定できてしまう手法を選ぶということ自体、「創造行為」を行う作家として未熟だと思ったからです。しかしどうも彼女は自分自身をも醜悪にさらけ出すような人生の人のようで、かなりヘンテコな作家だと、最近は思いますね。あまりこういう人はいません。
過去、マルキ・ド・サドとか、エゴン・シーレとか、ジャン・ジュネとかトンでもない犯罪芸術家がいたわけです。ルイス・キャロルもかなり危ないです。芸術を志したものの挫折して違う方に進んで成功したトンデモ人もいますね。有名なのはヒトラーです。芸術というのはかなり危ない人々を生み出すこまったシロモノなわけで、プラトンも芸術家だけには国家は任せちゃいかん。とぶつぶついっています。まぁ、本当はプラトンのは文脈は違いますが、真理の模倣者、真理を歪めるもの・・という芸術家の特性は拡大されるならばトンでもない方向にすら行くということですね。
柳美里においてはそこまでトンデモではありませんが、常識という点において、人間関係に於いて破壊を選び取る行為において、かなりやはりずれまくった人ではあるでしょうが、しかしそのずれた視点だからこそ産出する芸術を担う覚悟を彼女自身がしている。社会はこういう人の非常識を許してはいけないですが、同時に芸術性は認めていくべきでもあるとは思いますね。とはいえ件の裁判の結果は当然であり、芸術というものを免罪符にすることはやはり出来ない。社会の常識として機能していなければならないとは思います。
「石に泳ぐ魚」は100年後、当時者達が全て死に絶え、当時者を知る者が全て死に絶えた時、裁判の記録と共に公表され、世俗の評に委ねるのが宜しいかと思います。
@@@しまった。何故か「石に泳ぐ魚」を「水に泳ぐ魚」などと表記していた。直したけど。
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